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      <title>てるてるの日記帳</title>
      <link>http://t-mikami.net/diary/</link>
      <description>ここでは、私が思ったことをつれづれにつづっている日記帳を公開します。</description>
      <language>ja</language>
      <copyright>Copyright 2010</copyright>
      <lastBuildDate>Sun, 28 Feb 2010 22:08:59 +0900</lastBuildDate>
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            <item>
         <title>友達がいない：だって僕の性格が悪いんだもん</title>
         <description>近頃「友達がいない」と、友達に言うことが多い。
↑この時点で、完全に矛盾してます。

これを「友達が少ない」と言う意味に置き換えて考えるとして、
僕が友達がいない理由としてあげているのが、
「僕の性格が悪いからだ」ということ。
で、「そんなことないですよ」と優しいフォローを頂いたりして、
そんな悪い人じゃないよねって感じになり、
その場は、まったりした感じになるのですが。

結構、僕は、これを本気で言っています。

性格が悪いというのを、
悪い人間、人に嫌われる人間という意味でとらえていないのです。
いろいろな人と積極的に会う機会を作れていないとか、
こまめに連絡を取ることができていない、
そのような行動がきちんとできていない、
そんな怠惰な性格に問題があって（性格が悪くて）、
友達がいないという結果を招いていると考えているのです。

「出会いがないから」というような周りの責任にしたくないのです。

出会いがないのは、それを作ろうとしない自分に責任があるのです。
本当は出会いがあるのにそれと向き合っていない自分に責任があるのです。

自分の手の届かないところに問題の原因があるのではない、
自分に問題があるのだから、自分に何とかできる。

「何とかしよう」

そうすれば、自分の力で素敵な未来が手に入れられる。
そう思いたいのです。

だって、そう思わないと「友達がいない現実」が悲しすぎるじゃないか。</description>
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         <pubDate>Sun, 28 Feb 2010 22:08:59 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>男と女の脳のちがい：男と女の天然系</title>
         <description><![CDATA[男の脳は無数の箱。女性の脳は高速ネットワーク？
　<a href="http://lifehacking.jp/2008/01/gender-and-brain/">http://lifehacking.jp/2008/01/gender-and-brain/</a>


これは、男性と女性の脳の違いについて、
・女性は複数のことを同時に考えられる。
・男性はひとつのことを集中して考えられる。
という、
まぁよく世間で言われていることに触れている記事なのだが、
ちょっと面白いなと感じたところがあったので紹介する。

この世間で言われている男女の脳の違いは、
例えば、マラソンとかで、
男性は走ることに集中できるので、体力の限界まで走ることができる。
女性は走ると同時に、体調をセーブすることを考えるので、
体力の限界まで使い切って走ることはできない。
、というようなことで触れられたりする。

こういったことは、世間でよく耳にすることなのだが、
この記事の面白いところは、
「男性は何にも考えていない状態でいられる」というところ。
要するに、男性は無心になれるが、
女性は無心になることはできず、常に何かを考えてしまうということ。
そして女性は、
何も考えていない男性をみてイライラするということらしい。

科学的な根拠がある訳ではなさそうなのだが、
この「何にも考えていない」ことについては、
確かにそうかもしれない、と感じた。

何にも考えていない男性と、
何にも考えていない女性がいた時、
そんな女性をみて
「計算で、何も考えていない（天然系）キャラを演じてるのかな？」
と思うことはあるが、
そんな男性の方をみて「計算高い」と思うことはまず無く、
本当に何にも考えていないだけに見える。

この記事で表現されている、
男女の脳の違いのユーモラスさ、
これを読んで見つけた、僕の「思い当たる節」がちょっと面白かった。]]></description>
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         <pubDate>Sun, 21 Feb 2010 15:29:56 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>モバゲーの正しくない使い方</title>
         <description>「腐女子です。
　クラスの男子同士をカップリングして遊んでいたら、
　（上手くカップリングできた）
　ある男子にドキドキするようになってしまいました。
　これは恋ですか？」

きっと、違います。


これは、モバゲーの質問広場にあった質問を元に、
僕が勝手に作った質問です（意味合いは元の質問から変えていません）。

僕が思った感想は、
「へー、腐女子ってこんなことをして遊ぶんだ。
　なるほどねぇ。」
と、言うもの。

自分が書く小説の中に、もし腐女子を登場させるとしたら、
カップリングをして楽しんでいる描写を入れようと思います。

日常生活の中で腐女子との接点がないので、
このようなモバゲーの情報源はキャラクター作りの役に立ちます。
# きっとモバゲーの正しくない使い方です。


昔、小説家をやっている先輩が、
インターネット上の掲示板を作って、
一人三役ぐらいを演じて掲示板上の会話を作っていました（一人で）。

先輩曰く、
「これは、キャラクター作りのトレーニングになる」
なるほど、そうかもしれない。
とは、思ったのですが、
やっぱりキャラクター作りのための情報源は必要ということで、
この正しくないモバゲーの使い方を続けようかなと思います。

小説に出てくるキャラクターが生き生きと動き回るためには、
上手くキャラクターを作らなければならない。
そして、キャラクターを作るためには、
いろいろな資料が必要なはずなのです。</description>
         <link>http://t-mikami.net/diary/2010/01/post_124.html</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">文芸のこと</category>
        
        
         <pubDate>Mon, 18 Jan 2010 01:46:07 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>頑張らなくていいから</title>
         <description><![CDATA[今日で阪神淡路大震災から１５年になる。

この震災は僕の人生に大きな影響を与えていて、
以下のエントリでも触れている。

自分が住む町を好きになること
　<a href="http://t-mikami.net/diary/2007/03/post_74.html">http://t-mikami.net/diary/2007/03/post_74.html</a>


今日は「頑張れ」について書いてみようと思う。

この震災の後から、
僕は、人に「頑張れ」と言わなくなった。

僕と同じという人も多いと思うのだが、
当時の神戸ではよく
「限界まで頑張っている人に、『頑張れ』というのは酷だ」
と、言われていた。
自然の猛威の前に、人は太刀打ちできない。
頑張ってもう限界の人に、頑張れというのは酷いことだ。

それから、
僕は誰かに「頑張れ」とは言わないようになった。

誰かに「頑張れ」というのは、
「高みの見物」をしていることのように思う。
あまりにも、お気楽で無責任なことだと思う。

これからも僕は、
誰かが何かに立ち向かわなければならない時、
「（一緒に）頑張ろう」と、声をかけていきたいと思う。

頑張る必要がなさそうであれば、
「頑張らなくていいよ」と、声をかけていきたいと思う。]]></description>
         <link>http://t-mikami.net/diary/2010/01/post_123.html</link>
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         <pubDate>Sun, 17 Jan 2010 16:54:28 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>橋を渡る奴ら</title>
         <description>その人がどんな人か？

「鳴かぬなら、×××××××、ホトトギス」
というのは、その人がどんな人かをあらわす例え話だ。

それと同じような感じで、
「目の前に、壊れそうな橋があったらどうするか？」
というのを、周りにいるいろいろな人の場合で考えてみた。

・誰かが渡るまで様子を見て、
　誰かが問題なく渡りきったことを確認してから、渡る人。
・壊れそうなスリルを楽しみながら渡る人。
・壊れそうになった原因が何かを調べることに夢中になる人。
・他にきちんとした橋がないかを探す人。
・川を船で渡ってしまう人。
・橋を直そうとする人
・あきらめる人

などいろいろなパターンの人を考えることができた。
自分自身は「川を船で渡ってしまう人。」に当てはまるかな？
なんてことを考えてみたりしたのだが、
やっぱり壊れそうな橋があったら、
「橋の向こうに行く用事を誰か別の人に押し付けて、自分は橋を渡らない人」
というパターンの行動を取れる人に魅力を感じる。

単純に聞くと、人に犠牲を強いるサイテーな奴なのだが、
ビジネスにおける経営戦略とかを考えると、これが正解なんだと思う。

リスクの高いビジネスがあった時に、
リスクもとらずあきらめもせず、そのビジネスを遂行するために、
他人（他の会社）にリスクを負わせるというのは、非常に合理的だ。
また、目的は橋を渡ることではなく、橋の向こう側での用事をこなすこと。
という目的がきちんと抑えられている点でも賢い。

このような人と、人間として深く付き合いたいかは別として、
こういう判断ができる人と一緒に仕事ができれば、楽しいのかもしれないな、
なんてことを、ふと考えてみた。

やっぱり、一緒にプライベートで深く付き合いたい人、一緒に仕事をしたい人など、
場面ごとで、魅力的な人間というのは異なってくるということで。</description>
         <link>http://t-mikami.net/diary/2009/10/post_122.html</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">日常のこと</category>
        
        
         <pubDate>Fri, 02 Oct 2009 01:58:53 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>それが日常の風景を変えた</title>
         <description>電車に乗って会社に向かう。
電車に乗って会社から家に帰る。

そんな日常の繰り返し、
季節によって、電車の中に居る人達の服装は変わる。
学校が夏休みに時期には、電車の混雑も減る。

時季の変化が、毎日の風景を変えていく。


そんな毎日の風景の中に、いつもと少し毛色の違う変化を見つけた。
近頃、ニンテンドーＤＳを持っている人が多いのだ。
「そんなもの、ずっと前からだろう」と言われるかもしれない。

が、
近頃の違いは、少し違う。
電車の中で、ＰＳＰを使っている人をほとんど見なくなったのだ。

この理由は、一体なんだろうか？
察しの良い人は気づいているかもしれないが「ドラクエ９」である。

ＤＳもＰＳＰも持っている人が、
「ドラクエ９」をするために、ＤＳを使っているから、
ＰＳＰをあまり見なくなったのではないかと考えられる。

ソフトウェアの大ヒット商品が、
世の中の風景を変えてしまうような変化を生むことは少ない。
ソフトには実体が無いので、
それによって世の中の景色が変わってしまうことは、基本的に無い。

自分自身も関わっているソフトウェアというビジネスだが、
建設やアパレルなどに比べると、
世の中への風景を変えてしまう力は弱い。
時々、自分の仕事が世の中にどう役立っているかを見失ってしまいそうになる。

「ソフトウェアも、確かに世の中に影響を与えているんだ」
そんな風に感じた、毎日の風景。


# あまり、ＰＳＰを見なくなったのは、最初は気のせいかと思っていたのだが、
# 観察していると、
# だんだん、ＰＳＰを使っている人が増えてきている（戻ってきている？）ようなので、
# おそらく気のせいではないだろう。</description>
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         <pubDate>Mon, 31 Aug 2009 00:00:53 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>ルールの意味を理解していますか？</title>
         <description>ルールありきの世の中っておかしいと思う。
人の行動が「ルールだから」と言う理由で規定されることに疑問を感じないだろうか？

例えば、株式市場に上場している会社が、
会計のルールを遵守して決算を発表しなければならないのは、
「ルールだから」なのだろうか？
これはあくまでルールを守ることが合理的だから守るのであって、
ルールありきではないはずだ。

株式市場に上場する会社は、投資家からお金を集めたいから上場する。
投資家が正しい判断をするために、正確な決算を発表する必要がある。
投資家がほかの銘柄と比較するために、一定のルールに従って発表する必要がある。
このように、投資家が判断するための情報を提供しなければ、
会社としてはお金を集めることが出来ず、上場する意味もなくなる。
だから、会計のルールを遵守することは合理的なのである。
この場合、ルールは投資家からお金を集めるための手段の一つであり、
決してルールありきではない。

最近、僕の身近では「ルールだから守れ」というようなことをよく耳にする。
そのルールは正しいですか？
そのルールは合理的ですか？
そもそも何のためのルールですか？

ルールを疑うことを知って、駄目なルールは変えていかなければならない。
ルールの意味（そのルールが存在する理由）を知って、正しくルールを使っていかなければならない。


ルールを掲げて「ルールを守れ」と、
偉そうにしている人を見ると、こんなことを言いたくなる。
「あなたはそのルールの意味を理解していますか？」</description>
         <link>http://t-mikami.net/diary/2009/08/post_120.html</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">日常のこと</category>
        
        
         <pubDate>Sun, 09 Aug 2009 03:09:49 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>一日の終わり</title>
         <description>仕事やプライベートでもそうなのだが、
「自分が何をしなければならないか」を
「todoリスト」で管理することは多い。

僕もtodoリストを作って仕事をするのだが、
仕事が忙しくなると、
todoリストの項目の多さにうんざりしてしまうことがある。
リストの仕事をこなしてもこなしても、
次から次へと新しい項目が追加されていくような状況だ。

こんな時、ついつい深夜まで残業をして、
その後もこなしきれなかった項目を気にしながら家に帰り、眠りにつく。
そして、気にしながら眠った結果、朝もすっきりとはしない。

気持ちよく眠るために、家で眠る前に気になる項目に対応して眠りにつくこともあった。

そんな時のために、
「エンジニアのための時間管理術」という本で良い方法に出会えた。

「todoリストは毎日作り直す」

まず、毎朝、一日のtodoリストを作る。

当日〆切の項目を優先度Ａにする。
各項目の見込み時間を記載する。
優先度Ａの項目が当日中に消化できないとわかったら、優先度Ａの項目の一部を他の人に任せる。
新たなtodoが増える度に、これを繰り返す。

優先度Ａの項目すべて消化出来たら、
優先度の低い項目を消化していく。
定時になったら、消化できていない項目を次の日のtodoリストに転記する。
転記した項目は、当日のリストには対応済みとマークする。

これで、すべてに項目が対応済みとなるので、
気持ちよく退社して眠りにつくことが出来るという算段だ。
やっていることは同じかもしれないが、
一日の終わりに、todoが全て対応済みになるのは、気持ちがいい。
こうすれば、ベッドに入ってから、リストの残りが気になって、よく眠れないということもなくなる。

ま、当日（or次の日の朝一番）〆切の仕事がこなしきれず、
任せる人が誰もいないときは、やっぱり眠れないのだけれど。
こればかりは仕方がない。
せめて、仕方がない日以外はきちんと眠ろう。</description>
         <link>http://t-mikami.net/diary/2009/08/post_119.html</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">ビジネスのこと</category>
        
        
         <pubDate>Wed, 05 Aug 2009 00:33:10 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>感情に訴えるドキュメンタリー</title>
         <description><![CDATA[最近、僕が気に入って見ているテレビ番組の一つに、
東京MXテレビで日曜深夜にやっている、
「松嶋×町山　未公開映画を観るＴＶ」という番組がある。

松嶋×町山　未公開映画を観るＴＶ
　<a href="http://www.sonymusic.co.jp/etv/matsumachi/">http://www.sonymusic.co.jp/etv/matsumachi/</a>

この番組は、日本では未公開のアメリカのドキュメンタリー映画を紹介する番組なのだが、
毎週、マイケル・ムーア監督の「華氏９１１」みたいな
ドキュメンタリー映画を紹介している番組と思ってもらえばよい。

最近取り上げられていた「ウォルマート」などでは、
「ウォルマート」という会社が、
進出によって地域の商店街を潰し、
移民を安い給料で雇い、
途上国で過酷な労働を強いて商品を作り、
敷地内で起きた犯罪を放置し、
莫大な利益に対し寄付などの社会貢献が異常に少ない、
ということをドキュメンタリーで訴えている。

このような映画は日本ではあまり無いような気がした。
日本は、このようなジャーナリズムを、
テレビ局などのメディアが担っているように思う。

僕は、日本のテレビ局が作成しているドキュメンタリーと、
この番組で扱われているアメリカのドキュメンタリーには質的な違いを感じる。

日本のテレビのドキュメンタリーは、冷静で科学的なのだが、
アメリカのドキュメンタリー映画は、とにかく感情に訴えているような気がする。

映画やテレビのような映像メディアというのは、
雑誌や新聞に比べて、感情に訴えることに長けたメディアだと思う。
# 文字で人が泣き叫んでいたと書いてあるよりも、
# 泣き叫んでいる人の映像を見せられた方が心は揺さぶられる。

アメリカのドキュメンタリー映画のような手法がよいとは思わないが、
感情に訴えることに長けた映像メディアの特性をうまく使っていると思った。

感情に訴える手法で、
映画を見た人に作り手の論理を正しく伝えることが出来るかは「かなり」疑わしいが、
感情に訴えられた方が人は動く。

「なにかおかしいぞ」と思う人を一人でも多く作ることが、
世の中を動かしていく第一歩なら、
「感情に訴えるドキュメンタリー」もありなのかな。
最近は、そんなふうにも思っている。]]></description>
         <link>http://t-mikami.net/diary/2009/07/post_118.html</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">日常のこと</category>
        
        
         <pubDate>Wed, 22 Jul 2009 23:09:34 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>ファンタジーとミステリー</title>
         <description>ミステリー小説を書こうと思って、プロットを考えてみる。

ミステリーというジャンルの小説を
書いたことがない僕は、
なかなかうまく物語の辻褄あわせが出来ないでいる。
「いっそのことファンタジーに逃げてしまおうか？」
そんなことを考える。

こんなことを考えながらふと思ったことがある。
「ファンタジーなら、辻褄があっていなくてよいのか？」
そんなことは無い。
ファンタジーでも辻褄があっている必要はあるはずだ。

じゃあ、どうしてミステリーを書こうとすると、
こんなにも悩ましいのだろう。

その理由は、ファンタジーの特徴にあるのではないか。

ファンタジーは、
作者によってユニークな幻想世界を作ることが出来る。
作者によって作られ、読者との共通の了解をえられた
その世界には、自由なルールを作ることができる。
昼が暗闇でもよいし、火が熱くなくてもよい、
街が空を飛んでもよいし、花がおしゃべりをしてもいい。

そんな幻想世界の上に辻褄のあった物語を作ることと、
現実の世界の常識の上に辻褄のあった物語を作ることは、
根本的に、質の異なる作業だ。

ファンタジーであれば、
世界の前提と物語の辻褄を同時に作る必要がある。
ミステリーであれば、
現実世界の常識と物語の辻褄のすり合わせが必要になる。

好き勝手に物語を書いてきた僕には、
ファンタジーが性に合っているのかもしれない。
それをわかりつつも、
ミステリーにチャレンジしてみたい僕が居る。</description>
         <link>http://t-mikami.net/diary/2009/07/post_117.html</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">文芸のこと</category>
        
        
         <pubDate>Wed, 22 Jul 2009 02:39:51 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>時間感覚</title>
         <description>先日、腕時計を買った。

近年は、携帯電話に時計が付いているので、
わざわざ腕時計をつける必要を感じていなかったのだが、
アクセサリ感覚で腕時計を買うことにした。

実際に購入したのはカシオのオシアナス(http://oceanus.casio.jp/)で、
（デジタル式でなく）クロノグラフのアナログ式だ。

これで、日常生活の中で見る時計が、
携帯電話のデジタル式から、アナログ式に切り替わった。
使い始めて、半月も経っていないのだが、
実感として、時間感覚をつかみやすくなった。

そしてふと、中高生の頃に、
「英検や入試などの試験で使う時計は、アナログ式にしなさい」と、
言われたことを思い出した。
これは、デジタル式よりも、
テストでの時間配分が行いやすいからというのが理由だ。

これは、今感じている実感とまったく同じことなのである。


実際、社会人になってから、
気が付けば夕方になっていたというようなことが多い気がする。
画面の端に常に時計が出ているパソコンに、
ずっと向かい合っているにも関わらずだ。

午前９時～午後６時まで働くとした場合、
午後３時という時間にどんな印象を持つだろう。

アナログ式の時計であれば、
全体の３分の２過ぎたことが直感的にわかる。
もう少し細かく説明すると、
短針の向きで言えば、
　午前９時は、左向き
　午後６時は、下向き
　午後３時は、右向き
となる。
そして、それぞれの時間経過の角度を見ると
　午前９時～午後６時は、２７０度
　午前９時～午後３時は、１８０度
　午後３時～午後６時は、９０度
となる。
つまり午後３時は全体の３分の２だということが絵でわかる。

デジタル式の場合だと、
午後３時という時間をどのように感じていただろうか？
「お昼を過ぎて一段落、さあこれから午後の仕事に取り掛かろう」
という感覚だったかもしれない。
いずれにしろ、「まだ」３時という感覚が強かったのは事実だ。

こんなことを感じながら、
腕時計だけでなく、デスクの上などにも
アナログ式の時計置いてみようかと思った。
自己管理のためにも、きちんとした時間間隔を持つ必要がある。

アクセサリ感覚で買った割りには、
意外なほど、実用的な発見の多い腕時計のお話。
アクセサリ感覚が生んだ時間感覚。</description>
         <link>http://t-mikami.net/diary/2009/06/post_116.html</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">ビジネスのこと</category>
        
        
         <pubDate>Sat, 06 Jun 2009 02:46:05 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>草食男子考</title>
         <description>近頃、「草食男子」という言葉が流行っているようだが、
最近は、この言葉が元々の意味と異なる意味で使われているように思う。

僕は、本来「草食男子」とは、
恋愛に積極的ではないイマドキの男性という意味だと考えている。
細かく言えば、
女性に興味が無い訳でも無く、
女性から恋愛対象に見なされないようなタイプでも無く、
きちんと恋愛経験もあるが、積極的ではない男性。という説明になる。
# 要するにガツガツしていない男性ということ。
# 補足的に、繊細で優しいなどの特徴が言われることも多い。
# 一時期言われた、中性的な男性というものの延長と言えなくも無い。

そんな「草食男子」だが、
最近は、婚活ブームと抱き合わせで使われ、
「女性をリードできない奴、（その結果、結婚できない駄目な奴）」
というニュアンスで使われているケースを見かける。

本来の草食男子は、
女性をリードしないわけでも、駄目な奴でもないと思うのだが。
ガツガツしなくても恋愛経験があるような男性、
逆に言えば、女性からアプローチを受けることが多い男性ということなので、
どちらかというとイケメンが多いのではないかとすら思う。


と、こんなことを考えていて既視感を覚えた。
これって、一昔前の「負け犬」と同じではないか。

僕は、「負け犬」という言葉は、
結婚に興味が無い訳ではないが、独身生活を謳歌している３０代以上の独身女性
という意味だと思っているが。

この言葉も、単に結婚できなかった駄目な女性
というニュアンスで、使われているケースがあったと記憶している。

「負け犬」に対して「勝ち犬」という言葉が作られたように、
「草食男子」に対して「肉食女子」という言葉が作られているのも、
なんだか、似ているなと思った。


そんなことを考えている僕は、
どっちかと言うと草食男子だと思う。
別に、自分がイケメンだとは言わないが ^^;</description>
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         <pubDate>Sat, 25 Apr 2009 02:33:28 +0900</pubDate>
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         <title>隠居できない現代</title>
         <description>友人とこれからどんな仕事をしていきたいかなどを話している時、
よく冗談で「隠居したい」なんてことを言っている。

友人と僕のイメージでは、
村一番の知恵者として、村人たちに頼られる存在。
村人たちが解決できない問題が起こった際に、
「そうだ、ご隠居に聞いてみよう」という感じで、
村人たちが、ご隠居の元に相談にくる。
そんな存在として、余生を過ごしていくイメージだ。

そんな昔話のようなご隠居は、現代に存在できるのだろうか？


身の回りを見渡して見ると、
残念ながら、尊敬できる年上の人というのは滅多にいない。
組織の中の年寄りは、
古い考え方に縛られている厄介者になっているケースも多い。
とても村人たち（＝若い人たち）に頼られる存在ではない。

これは現代社会の変化が激しいこと、
それから、複雑になっていることが原因だと考えている。

そんな現代社会で隠居するには
（＝若い人たちから頼られる存在になるには）どうすればよいか？


現代社会は、複雑なこと、変化することが多いが、
普遍的な要素も多い、そういった物事の本質を理解して、
村人たち（＝若い人たち）と、
きちんとコミュニケーションをとることが重要なのではないか。

友人と僕の隠居願望（？）からふと、そんなことを考えた。</description>
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         <pubDate>Tue, 31 Mar 2009 02:33:49 +0900</pubDate>
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         <title>物語はすっぽりと箱に収まる</title>
         <description>「物語には『始まり』『展開』『終わり』がある。」

これは、僕が大学生の頃に、
文学研究会でグリム童話を研究していた際に行き着いた、
全ての物語に共通している特徴である。
# この時の研究においては、
# グリム童話の物語における共通した特徴だが

「当たり前」の一言で、片付けられるかもしれない。

が、１０年経って改めて考え直してみると、
この特徴は物語をうまく表しているのではないかと思う。


「物語」と対比して、この世と言うものを考えてみると、
『始まり』『展開』『終わり』の３つうち、
『展開』は存在するが、
この世に、『始まり』と『終わり』が存在するかは不確かである。

物語には『始まり』『終わり』があるので、
その繋ぎにあたる『展開』の意味を解釈することが出来る。
つまり、物語にはメッセージ性が存在することになる。

それに対して、この世の『始まり』『終わり』は不確かなので、
その『展開』がどのような意味を持つのかを、
解釈することは困難とならざるを得ない。
つまりこの世の『展開』、日々起こる様々なことに、
どのようなメッセージ性があるのかは、解釈し難い。


そんなこの世に生まれたのが「物語」。

物語には、はっきりと『始まり』と『終わり』が存在する。
それは、すっぽりと箱に収まるようなイメージで。
# 逆にこの世が、すっぽりと箱に収まる様子はイメージしにくい。

ノン・フィクションであればこの世の一部、
フィクションであればこの世を投影した世界の一部、
をすっぽりと箱に収めたものが「物語」。

その箱を覗くことで、
物語の作者による「この世の『展開』」の解釈を知ることが出来る。
それが、作者から読者へのメッセージなのである。</description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">文芸のこと</category>
        
        
         <pubDate>Wed, 29 Oct 2008 00:31:52 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>「おしゃれ」ってものはね</title>
         <description>「『おしゃれ』と言うものは、
　おしゃれをしようと思ってした時点で、
　それはもう、『おしゃれ』ではない。

　自分が好きなもの、気に入ったものを身に着けたり、
　自分がしたい事をしていて、
　それを、他人が見た時に『おしゃれ』だと感じるような様子が
　『おしゃれ』なのではないか」

というような僕の持論を語ってみたら、
所ジョージっぽい発想だね、と言われた。


言われた時は、正直、ピンと来なかった。

少し考えてみたら所ジョージは、
周りの目をいちいち気にせず、
自分が好きな事をやっている感じがある。
客観的に見て、それをセンスが良いと感じる人も多そうだ。

なるほど、所ジョージっぽい発想かもしれないと感じた。


この考え方を整理してみると、ポイントは２つ。
・周りの目をいちいち気にしない
・客観的に見てセンスが良い

１つ目の、周りの目をいちいち気にしないというのは、
実際、誰でも「おじさん」や「おばさん」に成れば達成できる。
# 若い人から見れば、
# この点が、気取らずにおしゃれが出来ているように見え、
# とても格好良く見えるのだと思う。

２つ目の、客観的に見てセンスが良いというのが、
誰にでも出来ることではない、と思うのだ。
このセンスの有無が、
格好良いおじさんか、
ただの（周りの目を気にしない、恥ずかしい）おじさんかの、
分かれ目になるのではないかなぁと思う。

僕に、２つ目のセンスはあるのだろうか？

ただ一つ確実に言えるのは、
冒頭のような持論を持つ時点で、
僕が、一歩一歩「おじさん」の階段を上がっているんだという事。</description>
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         <pubDate>Mon, 23 Jun 2008 00:04:19 +0900</pubDate>
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